「正しい日本語」に潜む罠。言葉選びで一番大切なこと。

考え方
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「確信犯」「煮詰まる」「敷居が高い」など、誤用の方が一般的になっている言葉がありますよね。
テレビでは、「本当はこっちが正解!正しい日本語を使いましょう!」と、みんなが曖昧な言葉に対して「正解」を提示するクイズ番組が人気です。
また、「その言葉は間違いだ!」と個人的に指摘する人も少なからずいらっしゃいます。

そういう番組、そういう人・・・

何か勘違いしてません?

そんな議論に巻き込まれて、困っている人をよく見かけます。困るまでいかなくても、なんかモヤモヤを感じている人も多いのではないでしょうか。

そんな人たちのために、この記事では2つの「考え方」をご紹介します!

この記事を読み終わる頃には、その議論がどれだけ不毛か、本当に大切なことは何か?理解できることでしょう。

では、早速参りましょう。

1.言葉が「正しい」かどうかには意味がない。少なくとも本質的ではない。

例えば、「ユーザ」は間違いで「ユーザー」が正しい、だとか、「全然大丈夫」は間違いで「全然構わない」が正しい、だとか、その主張の本質はなんでしょうか?

そもそも「正しいか否か」「正解か不正解か」この議論が成り立つのは、

  1. ルールが明確なため、誰が見ても原理的、論理的に「正しい」と思えること(法律や数学、ペーパーテスト)
  2. 再現性があり例外が見つかっておらず、誰が見ても「きっとこれが正しい」と思えるもの(科学や史実)
  3. 権威のある人あるいは組織が「これを正解とする」と決めた場合。

このいずれかです。

ただ、言葉はそうではない。辞書を拠り所にする人も多いかもしれませんが、それだって人の書いた文章のひとつであり、「日本語とはこうあるべき」という主張のひとつに過ぎません。(出版社の主張に従わない日本語使用者を間違いだと糾弾する権利は誰にもない)

それに対して正しいかどうかを気にしてしまうのは、ペーパーテストのマルバツを重視する近代の義務教育に洗脳され、それを利用して注目を集めようとするメディアにあおられている可能性が非常に高いか、そうでないならただのわがわまだ。すなわち、

  • 義務教育による洗脳(言葉に「絶対的正解」があると勘違いしている)
  • マウンティング(おまえよりおれが正しい、おれが正義、おれの方が上と言いたいだけの道具)
  • 攻撃的欲求(こん棒で誰かを叩きたい、正義と言う名のこん棒なら正当化されるし許されるはず)
  • 好みの問題(自分に馴染みのない、あるいは、嫌いな言葉遣いをしないでほしい)

のいずれかでしょう。
「正しいか否か」で意見が割れる時点で、それは「正しいか否か」が本質ではないのです。論理的にも導けず、信頼性が高く正解が明確なソースもないからこそ意見が割れるわけですから。

しかし、この主張自体、

「意見や解釈が割れた場合「正しいか否か」は本質的でない」という主張が正しいか否か?(☆)

という議論が起こり、きっと意見が割れてしまうという自己矛盾をはらんでいます。つまり、☆を議論することもまた、本質的ではないことになります。

では、この主張の本質は何か?

それは、この考え方をする人が増えて、少しでもネット上の不毛な議論に巻き込まれる人が減ったらいいなという私の願いです。採用するかどうかはあなた次第です。それでもやっぱり「不毛ではない、大切なことだ」と思うなら、それは自由です。ただ、私の考えに共感してくださる方が増えて、議論から降りられる人が増えるのなら、それが私の望む世界です。

「言葉が正しいか否かには意味がないのはわかった。では、大切なことは何?何を基準に言葉を選ぶ?」

次に、そんな疑問に対する回答を提示します。

2.言葉は「正しく伝わる」かどうかが一番大事。

「正しく伝わる」とは、言葉を伝える側が思い描いたイメージと、受け取った側のイメージが出来るだけ近いことです。これが一番大切だと考えています。これは、言葉の存在意義、本質を考えれば理解できるはずです。言葉は「伝えたいことが伝わって」初めて意味や価値を持ちます。でなければただの音あるいは模様です。伝わるものは、意味だけとは限りません。「印象」であったり、「心地よさ」であったり、「人間関係の確認」であったり、伝えたいこと、伝わることは様々と思います。

ですから、伝えたいと思っていたことと、異なることや余計なことが伝わったとしたら、その言葉は「正しく伝わって」いないので、改める方が生産的でしょう。例えばその日大変な苦労をしたであろう上司に対して労いの意図を伝えたくて「ご苦労さまでした!」と言ったところ、上司が気分を害してしまったとしたら、それはきっとあなたが伝えたいこととは異なることが伝わってしまったわけですよね。改める方がいいでしょう。多くの人が認識している「ご苦労さま」の持つ意味を調べ、もっとあなたの意図が伝わるより適切な言葉に置き換える方がよい、ということです。これも、「ご苦労さま」という言葉が「間違っている」からまずいのではないのです。「ご苦労さま」という言葉が「あなたの意図と間違って伝わった」からまずいのです。

つまり、発信者と受取側の双方の理解があって初めて「正しく伝わる」のです。これが面倒なので、「正解は何?」と問いたくなってしまう気持ちもよくわかります。しかし、コミュニケーションとはそういうもの(=面倒なもの)です。昔は、何にでも、コミュニケーションコストをかけてあげるのが当然でしたから苦にならなかったものが、最近はコミュニケーションコストをかけずに出来ることが増えてきて、逆に、コミュニケーションコストをかける訓練が足らなくなって苦しくなっている状況は指摘できると考えています。

 



例えば、「みんなが一様に誤用している」場合、正義はどちらにあるでしょうか?

  1. 昔から正解とされている本当の意味(だけどみんな知らない)
  2. 現時点で過半数以上が共通認識を持って実際に使って伝わる意味(本当は間違い)

コミュニケーションをとる(伝える)目的に合致しているのはどちらだと思いますか?
言葉は変化するものです。これを前提とするなら、それはもはや、「正しい」意味なのではなく、「古い」意味です。

「古い」意味をいつまでも「正解」のままにしておいて、果たして意味があるでしょうか?

と、あたかも「誤用を正解にしてしまえばいいじゃん」という論調で進めて来ましたが、私はそれにも反対します。

それもまた、「正解を決めたがる」悪しき風習から脱していないからです。

先ほども申し上げたとおり、義務教育の影響で日本人は「正解」が好きですよね。「本当はこっちが正解」という絶対的な正解に拘ってしまうのは、日本の義務教育から出たアクだと思っています。私も、かつて新入社員のときに「仕事の正解」を求めすぎて、上司に諭されました。

言葉は、相手に伝えることが目的です。相手に合わせて使う必要があります。

「どっちの理解もある以上、相手に合わせて使うのがベスト」

ということになります。例えば年配の方や日本語に詳しい人に使うときは正しい言い方、若い人に使うときはイマドキの伝わる言い方でコミュニケーションをとるのが、最も言葉を使う目的に合致した使い方です。聞くとき、読むときは、使う方の年代などを考えて、「どちらの意味で使われているかな?」と考える一手間を惜しまないことです。

そんなの面倒だ!言葉の意味はどちらかに統一すべきだ!

そう主張されるのもわかります。実際、私だってめんどいです。
しかし、それはあなたに変えられることでしょうか?
周りを変えていくのはしんどいです。茨の道です。それはあたかも、「為替相場が変わるのは面倒だ!固定してしまえ!」と言っているようなものです。そしてほとんどの場合、それは失敗に終わります。
ニーチェの祈りにあるように、(そこに命をかける覚悟がないのなら)「自分の変えられないことは受け入れる寛容さ」が必要でしょう。(命をかける覚悟があるのなら誰もそれを止められません。そういった人、人達が、これまで革命を起こしてきた歴史的背景もありますし。)

また、だからこそ、「業界用語」「専門用語」が発展してきたのだと思います。もちろん、仲間内の共通言語がそのコミュニティを強化するような他の意味もあるかとは思いますが、主な目的は「その言葉の共通認識度を上げる」ことです。その言葉を使用する範囲を狭めていけば、よりひとつの言葉が正確に、そして多くの意味を持つようになります。まさに「正しく伝わる」ための効率化を、高い水準で成し遂げているのです。

そういった、せっかく高い水準で共通認識化が進んでいる言葉は積極的に使っていき(∵自分の理解と相手の理解が同じである可能性が高い)、怪しい言葉については客観的な考察やコミュニケーションコストを惜しまない、そしてそれらを見分けられるように学んでおくこと、そんな姿勢が、「正しく伝わる」ことを大切にした、言葉との付き合い方かなと考えています。

今度、「こっちの方が正しい」とか「こう表記すべきだ」みたいな議論に巻き込まれそうになったら、「相手に正しく伝わるのはどっちかな?」と考えてみてください。「このケースだとこっちの方が正しく伝わるのでは」と答えが見つかるかもしれませんし、「別にどちらでもよい気がする」こともあるでしょう。些細なことでも、関係者が共通認識を持っているのあればそこは揃える方が良いですし、そうでもないなら、伝わりさえすれば、とりあえず問題ないでしょう。その上で、「こちらの方が読解コストが下がる」などの「より良い表現」を追及するのであれば、それはその先の話です。こうやって本質的な観点で切り分けて考えていくと、不毛にならずに済むと思います。

おわりに

もちろん、世間で取り沙汰されている「正しい日本語」が、日本語を扱う人同士の「共通認識度」を上げることに寄与していることは疑いのない事実です。

しかし、それも行き過ぎると、複数ある意味をひとつに絞ってしまったり、意味が変わってきているのにその変化に対応できなくなったり、他人の認識を改めようと躍起になって波風を立てる言葉警察が出てきたり、弊害も出て来ているように感じたので、この記事を書きました。

この記事を読んだ方が、少しでも、「まあ、仕方がないか」と思えたら幸いです。

画像提供:congerdesignによるPixabayからの画像

この記事を書いた人
こもれびエンジニア

自然と自由を愛するエンジニア。2021年1月に、大手製造業設計からプログラマ(Rails, AWS)へ転職。動物や自然との触れ合いや、汗を流すのが好き。

/HSP(繊細さん)/18デリケートな象/ストレングスファインダー(1分析思考/2親密性/3学習欲/4調和性/5収集心)、テニス、合気道、登山、あいだみつを、ジブリ、ワンピース、ドラゴンボール、AWS、Ruby on Rails、アイミング

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